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バッタンバンで晴読雨耕

バッタンバンを中心としたカンボジア北西部の情報ブログ-大学教育、地雷、農業、開発、投資に関する話題から ホテル、レストラン情報まで

 

南部仏印とタイへの進駐

引き続き、
カンボジアにおける1940年頃の日本軍の活動についてまとめてみたい。
これに係る資料は非常に限られていることから、
ウェブ上にある資料をもと基ににまとめることとする。

まずは1941年の南部仏印とタイの進駐について。

先の記事でも書いたとおり、
1907年より現在のカンボジアに当たる土地全ては、
ベトナム、ラオスと共にフランス領(フランス領インドシナ、仏印と呼ばれる。)となっていた。
そのうち現在の北部仏印(現在のハノイを中心にトンキンと呼ばれた地域)に対し、
日本軍が進駐を開始したのは1940年9月22日。

その後、1940年11月23日から1941年5月8日、
タイ・フランス領インドシナ紛争が起き、
この結果、現在のカンボジア北西部(バッタンバン、バンティアイミアンチェイ、シェムリアップ)が、
タイへ譲渡されることとなった。

そして、1941年7月2日に開かれた御前会議において、
南部仏印への進駐が決定され(「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」)、
同28日より進駐が開始されている。

これを担ったのは海軍、
南遣艦隊(司令官: 平田昇中将、後に小沢治三郎中将)、
第2遣支艦隊(司令官: 新見政一中将)、
そして陸軍、第25軍(司令官: 飯田祥二郎中将)、
第25軍には近衛師団も含まれていた。
サイゴン(ホーチミン)には7月30日に上陸を開始、
8月8日にこれを完了。

これを受け、
日本の南仏進駐に反対していたアメリカは、
8月1日に日本に対する石油の輸出禁止を決定している。
(太平洋戦争の引き金となった決定。)

現在のカンボジア域内への進駐については明確な日時は不明ながら、
ホーチミンの到着後間もなくこれが開始されたと思われる。
カンボジアへの進駐後、
タイ領であった北西部を除く各地において、
更なる侵攻に向けて準備活動が進められた。

1941年12月8日、太平洋戦争開戦。

これとと同時に日本軍(第15軍、司令官: 飯田祥二郎中将)はカンボジアからタイへ向けて進駐を開始した。
トンレサップ湖北側からは近衛師団先遣隊が現在のシェムリアップ方面へ、
同南側からは近衛師団主力がバッタンバン方面からタイ領へ進軍、
両部隊はバンティアイミアンチェイからポイペトの周辺で合流し、
9日にはバンコクへ入った。
(飯田は1941年11月に第25軍を離れ、これに代わり山下奉文中将が司令官となった。)

また、日本軍は8日の進軍と同時に鉄道も接収したが、
ポイペト国境付近16キロのに区間ついてはレールがなかったため、
この連結作業作業を開始し、10日までにこれを終えた。

日本の進軍に対する抵抗から、
タイ南部において一部戦闘があったが、
カンボジアに面する西部においては、
アランヤプラテート上空で戦闘機同士の戦闘があった他は目立った衝突はなく、
進軍は非常にスムーズに進んだ。

8日のうちに平和進駐協定成立が成立、
12月21日には日泰攻守同盟条約が結ばれている。

第15軍はその後、タイからビルマへの侵攻を開始している。
第25軍は、第3飛行集団、南遣艦隊、第22航空戦隊と共に、
12月8日からイギリス領マレー、シンガポールへの侵攻を行った。

これらに係る資料としては、
防衛庁防衛研修所戦史室の 「戦史叢書 マレー侵攻作戦」が詳しいようだ。
折を見て探して読んでみようと思う。

ポイペト-アランヤプラテート間の線路が連結された時期については、
Brenden Whyteの「Railway Atlas of Thailand, Laos and Cambodia 」との間に若干の誤差があるため、
これについては他の資料にも当たってみたい。
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プロフィール

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Author:バッタンバン長
カンボジア王国バッタンバン在住、バッタンバン長です。
バッタンバンを中心に、開発援助業務、大学講師、社会調査、日系企業進出・投資のお手伝い等をやっております。
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