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バッタンバンで晴読雨耕

バッタンバンを中心としたカンボジア北西部の情報ブログ-大学教育、地雷、農業、開発、投資に関する話題から ホテル、レストラン情報まで

 

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ツムギアリの巣

農村でよく目にするツムギアリ。
赤っぽい色からアカアリ等と呼ばれることもあるが、
ツムギアリ属ということで間違いないようだ。

英語名はweaver ants。
直訳すれば「織るアリ」だから、
紡ぎも織りもする器用な生き物ということになる。

カンボジアの農村では非常に一般的なアリで、
タンパク質が豊富、
独特の酸味を持つことから料理にも用いられる。
(プノンペンの若い子たちは食べたこともなさそうだが。)

攻撃的な性格で、
噛まれると結構痛いので注意が必要。
気が付くと、
足元からどんどん登って来てたりする。

巣は木の上で葉を合わせ、
幼虫が吐き出す糸で繋いで作られる。
名前の由来はこの習性によるものだ。
以下は大学農園で見つけた巣。

Weaver Antsの巣1

Weaver Antsの巣2

なかなかオシャレなデザインである。

巣を作った木の枝が切り落とされてしまったようで、
地面に落ちた巣をどうするか右往左往しているようであったが、
巣は1日程で作れるそうだ。

さすが働き者として知られるアリ。
我々人間はよっぽど自分たちの家のほうを心配すべきというオチでした。
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書籍 「やまと言葉で哲学する」2

「はかる」、「はかない」に含まれる「はか」とは、
「イネやカヤなどを植え、また、刈ろうと予定した範囲や量」のことだそうだ。
そして、「はかない」とは、
「つとめても結果をたしかに手に入れられない、所期の結実がない意」で、
転じて「これといった内容がない」、「手ごたえがない」、「あっけない」という意味の言葉になったそうだ。

それだけを聞けば、
やはりネガティブな言葉としか思えないが、
そうでないところがまた日本人の哲学である。
竹内は岡倉天心の「茶の本」を引用する。

「はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。」
「茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するためにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てである。」
(本書P. 113、それぞれ「茶の本」より引用。原著の「evanesncence」という語が「はかない」と訳されている。)

逆に、「はかる」という言葉は「はか」という範囲、量が語源により、
「計る」、「量る」、「測る」という言葉が派生し、
「衡る」、「科る」、「忖る」(調整・案配・推測だそうだ)、「諮る」となり、
「図る」、「画る」、「策る」、更には「諮る」という言葉に発展したそうだ。
これはすごい。

つまり、「はかる」ということは、人がある意図や計画を持って生活していくうえでは、必ず求められる基本的な営みということができる。
その意味では、文明とは、人間がさまざまに「はかって」きた歴史の蓄積ともいえるが、その「はかる」ことがアンバランスなまでに特出して求められてきた、それゆえ、ある種の変質を持って求められてきたのが、近現代の文明、とりわけ科学技術的な考え方ということができる。(中略)
そこでは、ひらすら明瞭に「はかる」こと、効率的に「はか」どることが求められてきた。そして、それは科学・技術にとどまらず、やがて、経済や文化、社会のあり方にまで「はか」第一主義が支配・貫徹するようになってきたのである。そこでは何より「はか」がいくこと、はかばかしく結果を手にすることが求められている。(P. 185)

東日本大震災を経験し、
いかにこうした人間の営みが自然の前では無力であることを我々日本人は感じた訳だが、
同様の見方は梅棹忠夫が晩年に示した論考に見られるものだそうだ。
梅棹はこれを科学を人間の「業」であるとし、
人類の未来を「暗黒のかなたの光明」と呼んだという。

竹内の見方に沿えば、
「はなかい」ことを夢見ていた人間が、
「はかる」、「はかどる」ことを追い詰めた結果、
それでも乗り越えられない自然の存在に気付き「はかなさ」を感じているのが現代と言えよう。

しかしながら、
前述のとおり、日本人の「はかない」という感性は決してネガティブなものではなかったはずだ。
別の言い方をすれば「無常感」という感性である。

竹内は、吉田兼好、寺田寅彦、世阿弥、山崎正和など数多くの例を引き、
この感性について説明を施す。
それらのうち最近の例として挙げられたのが、
村上春樹の言葉(カタルーニャ国際賞での受賞スピーチ)だ。

最初にも述べましたように、我々は、無常(mujo)という移ろいゆくはなかい世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の前では、人は無力です。そのようなはかなさの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する経緯と、そのような危機に満ちたもろい世界にありながら、それでも生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。(本書P. 213に引用)

未来の「光明」は、
「はかない」という無常感に見つけられるものなのかもしれない。

西洋哲学の系譜からは大きく外れるものかもしれないが、
本書で紹介される思想は思想として十分頼りになるもののように思える。

はかることによって社会づくりが進んでしまった現状、
全ての(しばしば人工的な)問題を何の抵抗もなしに受け入れ、
「はかない」とだけいう訳にはいきそうもないが、
前向きに生きる姿勢を持ち続けるヒントにはなりうるであろう。

 

書籍 「やまと言葉で哲学する」1

やまと言葉で哲学する: 「おのずから」と「みずから」のあわいでやまと言葉で哲学する: 「おのずから」と「みずから」のあわいで
(2012/10/09)
竹内 整一

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「哲学」とは存在に関する西洋人独特の考え方であり、
我々日本人には理解できないものというのは、
木田元の説明であった。

形而上学としての「哲学」で言えばそういう理解もあるのかもしれないが、
より広い思想という意味で言えば、
日本人にだって十分理解ができるどころか、
独自のものを有し、発展させてきたことは間違いないであろう。

本書は日本古来のやまと言葉に注目し、
そこに見られる「哲学」とは何かを紐解こうというもの。
本書は以下の三部で構成される。

第一部は本書のサブタイトルにある「おのずから」と「みずから」に関する考察で、
第二部は様々はやまと言葉に焦点が当てられている。
第三部においてはこれらを踏まえた上で、
無常という日本的な価値観に迫っていく。

日本語では、「おのずから」と「みずから」とは、ともに「自(ずか)ら」である。そこには、「みずから」為したことと、「おのずから」成ったこととが判別できないという理解が働いている。
われわれはしばしば、「今度、結婚することになりました」とか「就職することになりました」という言い方をするが、そうした表現には、いかに当人が「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それはある「おのずから」の働きでそうなったのだと受け止めるような受け止め方があることを示している。(P. 8)

「我々の行為は、我々の為すものでありながら、我々にとって成るものの意味を持っている」(P. 8-9)
という三木清の言葉(出典「哲学入門」)も似た例として示され、
西田幾多郎、九鬼周造にも同様の思想が見て取れるという。
宗教における親鸞の「自力」「他力」の思想、
文学においては自然主義者らの私小説、
芭蕉の俳句にも根底にはこうした姿勢があるというのが竹内の見方だ。
なるほど。

読みながら「「である」ことと「すること」」を思い出したが
こうした自己と自然、自己と他者の通底性・連続性が、
「甘え」(土井健郎)、「空気」(山本七平)、「無責任の体系」(丸山真男)といった言葉で批判されてきたことも、
竹内はしっかりと指摘している。

主体と客体を分けるのが二分法の西洋に対し、
それらを分けない不二性が東洋であるというのは鈴木大拙サティシュ・クマールであったが、
東洋に属する日本にはやはり不二性の思想が根付いているということだろうか。

では、東洋の中でも何が日本的なのか?

1つの答えは題名にもある「あわい」ということであろう。
「向いあった二つのもののあいだの空間、間隔や、相互の関係
(配色、釣合い、衣装の色合い、また、人と人の関係、中)」(岩波古語辞典からの再引用)
などを意味するそううだが、
竹内はここで芭蕉の俳句論を引用する。

句作り成とすると有り。内を常に勤めてものに応ずれば、その心の色、句となる。内を勤めざるものはならざる故に私意にかけてする也。(「三冊子」)
芭蕉の俳句論である。否定されるのは、「私意にかけてする」ことであり、それは「うちをつねに勤めてものに応ず」と峻別される。あるべき句は、まさに「おのずから」と「みずから」の「あわい」に「な」ってくるものなのである。(P. 20-21)

主体と客体とを同体として見るだけでなく、
その関係性についても注目し、
そこに意味や美を見つけ出す、感ずるということであろう。

第二部以降で個人的に面白かったのは、
「さようなら」、「はかる」、「はかない」といったやまと言葉についての論考だ。

竹内曰く、世界のあらゆる言語においても、
「さようなら」という別れ言葉のような意味を持つものはないという。
(See youや再見、Good Byeやアンニョンヒケセヨの意味を考えれば、
なるほどだ。)

「さようなら」つまりは「そのようであるならば」という意味の間接詞である。
「それでは」、「じゃあ」、「ほな」、「だば」も同様の言葉だ。
そんな言葉を人と別れる際に発するというの奇妙な現象は、
竹内によれば、やはり「みずからとおのずからのあわい」と関連するものらしい。

如意の「みずから」と不如意の「おのずから」とは、両方からせめぎ合いながら、その「あわい」で人生のさまざまな出来事が起きている。「さようであるならば」の確認は、そのふたつながらの(むろんあいさつとして、いつも意識的ではありえないが、含意としての)確認・総括なのである。
先につながる事柄の何たるかは問わないままに、ともあれ「こちら」を生き切ることによって、「向う」の何かしらとつながっていく、といった発想を日本人が持っていたということである。(P. 91)

若干分かりにくい気もするが、
「じゃあ。」と言った後の余韻(敢えて言葉にすれば「じゃあ、色々あるけど頑張ろうな」という感覚)は、
十分に理解出来るものである。

(続く)

 

マンゴーの花

カンボジアで暮らし始めるまで、
マンゴーというものを口にすることはなく、
当然これほど種類があるものだとは知らなかった。

この時期になるとすでに一部のマンゴーの木には実がなり、
待ちきれないカンボジアの人たちは棒切れでつついてみたり、
届きそうな実に背を伸ばしたり、
木に登ったりと様々な手段でその自然の恵みを手に入れようと躍起になる。
他の東南アジアの国同様、
若い実のすっぱいところがおいしいらしい。

昨年の暮れ辺りから、
やけに目の痒みを感じるようになり、
「こんな田舎で花粉症か?」と思ったものだが、
マンゴーが原因という説もあるのだそうだ。

カンボジア人にとっては待ちきれない自然の恵みも、
我々やわな日本人にとっては災いになるということか。

マンゴーの花

見て美しさを感じられるような花であれば、
仕方なしと納得するところ、
他の木と比べると地味なのがマンゴーの花。

早く実を付けてくれれば、
カンボジア人も日本人もハッピーになるのだから、
急いでもらいたいものである。

 

日本脳炎の流行

知り合いの子どもが日本脳炎にかかり、
入退院を繰り返している。

具合が悪くなると、
片方の体に力が入らず、
食事もまともに取れなくなってしまう。
これといった手立てのない中、
その親は延命措置のような治療を続けていくのがよいことなのか、
自問自答を繰り返している。

日本という名はついているものの、
日本ではあまり馴染みのない日本脳炎。
カンボジアでは子どもを中心に多い病気で、
発症した後に特に効果的な治療法はないそうだ。

Phnom Penh Postの記事によれば、
1月にプノンペンのカンタボパ病院に受け入れられた患者数は1,000人を超え、
シェムリアップのジャヤバルマン7世病院でも800人を超えているという。
昨年同時期に比べ、
約2割増の数字とのこと。

日本同様、カンボジアにおいても予防接種は必須のものとはなっていない。

カンボジアでの滞在を予定されている方、
特に子ども連れの方は医療機関に是非ご相談を。

 

不動産投資としてのコンドミニアム

日系企業も進出もあり、
最近何かと話題になることの多いカンボジアの不動産事情。
時々見させて頂いているブログは、
勉強になるし、面白い。
(特に不動産専門のブログではないが、
営業目的でやっていないために逆に信頼出来る。)

先日はコンドミニアム販売に関するが出ていた。
これについてはこのブログでも以前書いたが、
賃貸収入を目的にした購入はなかなか厳しい状況のようだ。

統計によれば、
コンドブームの始まりは2010年で、
Phnom Penh Postに「Foreigners entering the condo market in Phnom Penh」
(外国人がプノンペンのコンドミニアムに参入)の記事が掲載されたのが2012年の10月。
同記事によれば、
2012年の上期の時点でコンドの買い手の約8割が外国人になっていたという。

その後は、
「過剰供給」と「外国人バイヤーの増加」を示す記事が増え、
先月の記事の見出しは「Demand for condos driven by foreigners」
(外国人によってコンドミニアム需要が引き上げられている)というものであった。
カンボジア人のバイヤーは躊躇しているものの、
外国人バイヤーの勢いは衰えておらず、
価格も年6%で上昇している(平均額は1,900米ドル/平米)という内容だ。

同記事に出ているデベロッパーの言い分は、
20年前のバンコクを比較に、
いずれはカンボジア人もコンドミニアムに住むようになるという強気なもの。

確かに、同紙は今週、世界銀行の報告書を基に、
プノンペン市の人口が過去10年間で90万人から140万人に増加し、
面積も110km2から160km2に増加しているとし、
4.3%/年の割合で都市化が進んでいることも示している。
都市人口が今後も増加することは間違いないであろう。

しかし、高級なコンドミニアムの増加率がそれに見合ったものであるのかは、
判断の分かれるところだ。

世の中、そんなうまい話がある訳ない、
ということだけは古今東西あまり変わらないような気だけはしている。

 

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プロフィール

バッタンバン長

Author:バッタンバン長
カンボジア王国バッタンバン在住、バッタンバン長です。
バッタンバンを中心に、開発援助業務、大学講師、社会調査、日系企業進出・投資のお手伝い等をやっております。
お問い合わせ等は、下のメールフォームからお願いします。

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