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バッタンバンで晴読雨耕

バッタンバンを中心としたカンボジア北西部の情報ブログ-大学教育、地雷、農業、開発、投資に関する話題から ホテル、レストラン情報まで

 

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書籍 「民話の思想」

本書を読み、子どもの頃に慣れ親しんだ昔話のことや、
カンボジアで見聞きした話のこと等、
様々なことに考えを巡らせることとなった。

子どもの頃に読んだ民話(というよりは童話や昔話)には何か教訓めいたものがあり、
簡単に言えば、正直で勤勉に生きることが正しいという価値観があったように思う。
「花咲じいさん」、「サルカニ合戦」、「鶴の恩返し」といった日本の昔話に限らず、
「金の斧、銀の斧」、「ウサギとカメ」、「アリとキリギリス」等といったお話にも、
そんな価値観が反映されていたように思う。

本書では日本各地に伝承されて来た様々な民話が紹介され、
その中に透けて見える伝統的な価値観、思想についての考察が行われる。
似たような話でも場所や時代によって異なる展開や結末であったりするのも面白い。
本書における価値観、思想についての考察は、
「善人と悪人」、「民話と外来思想」の2つに大きく分けられる。

前者については、「またうど」という人の在り方に係るものが中心だ。
これは「花咲じいさん」で言うところの「正直じいさん」に当たり、
子ども向けの昔話においては「正直じいさん」は「意地悪じいさん」という単純な対比となるのだが、
元の民話における「またうど」はもう少し複雑な定義を持ったものであるそうだ。

「またうど」は名詞であり、完人、全人、正人、真人の字が当てられ、
いずれも「またい」者のことを指す。

では、「またい」とは?
明代の中国で書かれた「日本風土記」では、
「至誠人」が「莫打許多(注:マタヒトの音訳、またい人」と訳されているそうだ。
「またい」の1つの解釈は至極誠実であることとなる。
また、1603年刊の「日葡辞書」では、
「純な、素直な、また、正直な」となっているそうだ。(P. 14)
1867年刊の「和英語林集成」では「またい」のシノニム(類義語)として、
「スナオ」、「オトナシイ」が挙げられているとのこと。(P. 22)

温和にして「腹立てず」の性格が、「またうど」の要件であったことは、『仁勢物語』第10段、「父はまたうどにて、母なむ立腹なりける」という一説に語りつくされていよう。(注:「花咲じいさんの元の1つである「枯れ木に花咲かせ親仁」が)愛犬を惨殺され、いじわる爺から、「泣く事はござらぬ」などと叱られながら、腹も立てず、文句も言わずに、松の木を受け取って帰る「オトナシイ」性格。「オトナシイ」という性格は、「弱い」という性格に通ずる一面を持つ。特に、「またい」の語を「弱い」という意味で使用している高知方言(『上ノ加江町史』)の存在をかえりみるとき、正直で温和なこの爺さんが、いかに昔話の主人公たるにふさわしい善良な弱者だったかということがよく理解されると思う。(P. 22-24)

おとなしさも、お人よしも、ここまでくれば、ほとんど即身成仏の感がある。いわゆる「仏のようなまたうど」(幸若「鳥帽子折」)として、生きながら仏の待遇を受けたのも、もっともだといわなくてはならない。むろん、いつの時代にも、知識人は、こうした種類の善人を、軽蔑の眼でしか見ようとはしない。(中略)
馬鹿だろうが、お人よしだろうが、伝統志向型の社会においては、「正人(またうど)」こそが善の理想像であった。(P. 59-60)

正直、親切、勤勉といった好ましい性格が「またうど」の要素ではあるが、
同時におとなしく、弱いといった一見マイナスの要素もこれに含まれているのだ。

そして「またうど」と対比されるのが「隣の爺」である。
「花咲じいさん」でいう「意地悪じいさん」がこれに当てはまる。

(省略)あるときは「いじわる」。あるときは「慾深」、あるときは「怠惰」など、さまざまな角度から描写されている、あの隣の爺は、いったいどのような呼称で包括的に把握したらよいか。かれのばあい、その性格的特徴は、慳貧性と懈怠性の二つに要約された。(P. 114)

まとめれば、本書における佐竹の主張は、
日本の民話における善人の象徴が「またうど」であり、
悪人の象徴が「隣の爺」という価値観が基本構造にあるというものになる。

それでは、外来思想の影響とは何か?
仏教思想に基づく「因果」、
儒教思想に基づく「天命」、
両者と関連する「孝」である。
(「孝」の要素は外来思想とは別にそもそも「またうど」の要素であったとも理解されるようだ。)

日本の民話は「またうど」、「隣の爺」という基本構造をベースに、
こうした外来の思想が加わり、様々な形で発展し、伝承されて来たというまとめになろうか。

しかしながら、色々な昔話を考えてみると、
「桃太郎」や[金太郎」やのように語り継がれてはいるものの、
あまり思想や教訓めいたものがないものもあるように思われる。
これらの話はどのようにして語り継がれるようになったのだろうか?
娯楽の少ない時代のエンタメだったと片付けてしまっていいのだろうか?

次は「カンボジアの民話世界」や他のカンボジアの民話集に当たって、
日本の民話との類似性や非類似性について考えてみたいと思う。


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書籍「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」

世界的な作家であり研究者であり、
あちこちで紹介され、語りつくされてきたダイアモンドの書籍を、
今更紹介する必要もないように思うが、
カンボジアという切り口で紹介じみたことをしてみようと思う。

ダイアモンド自身についての紹介は割愛。

原著のタイトルは「Why is Sex Fun?」(なぜセックスは楽しいか?)。
ダイアモンドのような学者でなければ、
興味本位の低俗な内容となりそうなものだが、
この問いも含めた人間の性にまつわる問いにつき、
非常に軽快なタッチで様々な研究結果や学説を紹介していく。

大学に入りたての頃に読んでいたら、
専攻が変わってしまっていたのではないかと思うほど刺激的な内容である。
社会学のトレーニングを受けた立場としては、
「Nature v. Nurture」(生まれか育ちか?)の議論においては後者を支持せざるを得ないのだが、
人類学、生物学の視点が無視出来ないものであることをあらためて認識させられた。

本書の中で特に目を引いたのは、
男は何の役に立つのかという厳しい問である。

「メスと子に提供されるサービスという点で、ほとんどの哺乳類のオスは精子を注入する以外は役立たずである。彼らは交尾が終わるとメスと別れるので、子を養い、守り、しつけるという重荷はそっくりメスが負うことになる。しかしヒトの男性は(常にではないが、たいていは)相手と子のそばにとどまる。その結果としてつけ加わった男の役割が、われわれ人類の最も大きな特徴の進化に決定的な役割をはたしたと、多くの人類学者は考えている。」(P. 148)

その役割とは、古い時代においては「狩り」であり、
現代社会においては「金を稼ぎ、食物を家に持ち帰る」というものである。
しかしながら、
なんとなく納得してしまいそうなこの仮説についての研究は、
これとは全く逆の結果を示しているという。

パラグアイで行われた調査において、
女性が子育ての合間にヤシを砕いて取ったでんぷんや集めた果実や昆虫の幼虫のカロリー量は、
男性が狩るイノシシやシカ、ハチミツのカロリー量よりも大きいというのだ。
しかも、男性は捕った獲物の3/4を家族外に分け与えてしまうという。
他の国で行われた調査でも類似した結果が示されたというから興味深い。
(しかしながら、狩りのうまい男性のほうが部族内ではモテるというから不思議な話である。)

現代社会においても同様で、
女性は仕事と子育てという2重の役割を果たすことが求められる一方、
男性は仕事に集中しがちであり、
男だから出来るという役割がなくなりつつあるというのが現実であろう。

カンボジアを含めた「南の国」において、
男性と比べ女性のほうが働き者であるというのは、
こうした国で暮らし、仕事をしたことがある人間にとっては納得がいくところではないだろうか。
事実、カンボジアの経済統計を見れば、
ビジネスオーナーの半数以上が女性であり、
家計を握っている女性も少なくない(この点については微妙なところであるが)。
他方、レストラン、飲み屋街、市場、様々なところで、
「旦那が新しい女をつくって逃げたから、私が仕事をして養育費を稼いでいる。」という話もよく耳にする。
そして、金のない男はなかなか結婚出来ないというのも現実だ(この点についても調べた訳ではないが)。

ここにおいても金のある(食物を持って帰れる)男が好まれる割りに、
実際にはあまり役に立たない男というイメージが浮かびあがってくる。

「カンボジアの民話世界」においては、
「女の世渡り」、「怠け者の完璧な妻」と題された男女にまつわる2つの伝承話が紹介されており、
後者は「役立たずの男」をまさに示した話である。

話は若干逸れるかもしれないが、
カンボジアにおけるジェンダー研究で見逃せないのは「チュバッブスレイ」(女性訓)であろう。
これは2007年までは中学校で教えられていたもので、
女性省からの要望により縮小されたものの、
現在においても一般論として賛同を得ている考え方である。

この女性訓には男尊女卑的な意識が強く反映されており、
上記を踏まえれば、
大して役に立たない男がエラソーにしているということになろう。
(翻って、我が国においては女子力の高い男子やイクメン等、
男性が女性の伝統的価値観、役割に寄って来ているという現象があるのは興味深い。)

さて、こんなことをズラズラ書いてきた男の私。
何かの役に立っているのだろうか?

本書にはこのような興味深い仮説や研究結果がふんだんに盛り込まれているので、
特にジェンダーについて関心のある方にオススメしたい一冊である。

 

書籍 「Hun Sen's Cambodia」

カンボジア関連の本は和文、英文問わず、
目を通すようにしているが、
現在進行形のカンボジア政治について言えばこれがベストの一冊であろう。
(そもそもカンボジア政治を扱っている本自体が少ないのだが。)

新聞離れの昨今だが、
カンボジア国内の動き、
特に来年の国政選挙へ向けての動きは看過出来るものではなく、
それなりの知識武装は必要であると思われる。

著者のStrangioは当地英字新聞記者であった経緯もあり、
本書は過去数年の政治情勢の総まとめといった作りとなっている。
過去の新聞を検索する手間なく、
政治の大きな流れを掴むことができるのだからありがたい話だ。

題名にあるとおり、
本書の大部分はクメールルージュ以降、
この王国が如何にして「フン・センのカンボジア」になったかをなぞるものだ。
異論反論、細かな意見はあるかもしれないが、
大まかな流れを掴むのには十分な内容であろう。

過去の膨大な記録の積み上げを行う一方、
Strangioはカンボジア社会、或いは政治を「ミラージュ(蜃気楼)」という言葉でまとめる。
より具体的には、
「an illusion of Western democratic forms behind which the country operated much as it always had」(P. xiv)
(表面的な西洋民主主義の裏で、これまでどおりの国家運営がなされている。)
ということだ。

フランス人社会学者Serge Thionの
「Khmer reality lies shrouded by many veils.」(P. 265)
(クメールのリアリティは多くのヴェールで隠された中に存在している。)
という言葉の引用も印象的だ。
タイ、ベトナム、フランス、アメリカ、中国、そして「国際社会」の影響を受け入れ、
それらの流儀、レトリックといったフォーマリティを一見上手に使いこなしつつも、
国、社会の本質は変わっていないということである。

「現在進行形のカンボジア政治」と書いたとおり、
本書のエピローグでは2013年の国政選挙を巡る動きが綴られる。
本一冊を読むのが苦痛という方にも、
この部分だけでも読むことをオススメしたい。
過去数カ月のカンボジアの国内政治の動き、
その背景を理解するには十分な情報が掲載されており、
来年の選挙への展望という意味でも示唆に富んでいる。

2013年の選挙では、
大方の予想以上に与党人民党が議席を減らし、
サムランシー党と人権党が統合されて出来たカンボジア救国党が大きく躍進を果たした。
人民党は議席を22減らし、68議席、
救国党は55の議席を獲得した。、
人民党、そしてフン・セン政権を脅かすには十分な結果である。

本書によれば、
カンボジア救国党躍進の理由は若い有権者の存在であった。
この選挙において、
950万人の投票者のうち、350万人は18歳から30歳、
150万人は初めて投票権を持った若者であったという。

これら多くの若者は、
救国党党首サム・ランシー氏の「変化!」という単純なスローガン、
反ベトナム、賃上げといったレトリックに引き寄せられ、
「変化」を現実のものとする一歩手前まで迫ったのである。

現実的な政策論争という点では全く物足りない状況ではあったが、
バッタンバンの町中で実施されたお祭り騒ぎのようなパレードからも、
「変化」を求める若者の熱意だけは伝わって来たことを覚えている。

「変化」ということは様々なことを意味するものだ。
来年の国政選挙では「変化」が見られるのか。
見られるとすれば、
それはどのような「変化」なのか。

有権者、そしてそれを代表する政治家の方々にも歴史を振り返り、
賢い選択をして頂けるよう願いたいものだ。

 

書籍 「人口と日本経済」と「武器としての人口減社会」

人口動態の変化によって日本経済がスローダウンしている、
より具体的には、
人口減少や老年層の相対的な増加が経済に負の影響を及ぼしている、
こうした議論は非常によく目、耳にするものだ。

そうした中、この議論に異を唱える新書2冊が目を引いた。
吉川洋(東京大学名誉教授/マクロ経済学)著「人口と日本経済-長寿、イノベーション、経済成長」、
村上由美子(OECD東京センター長)著「武器としての人口減社会-国際比較統計でわかる日本の強さ」である。

何よりも目を引いたのはそれぞれの帯に踊る力強いメッセージ。
吉川のほうには「日本の衰退は必然?経済学の答えはNOです。」、
村上には「少子高齢化はチャンス!」とある。
経済学、国際比較統計の観点から、
日本の明るい展望が示されるものとついつい期待値も上がってしまう。

しかしながら、上がってしまった期待値の分だけ、
読後感は複雑なものであった。
確かに、吉川は経済学的な視点から、
村上は様々な統計を用いて説得力のある議論を展開するのだが、
いずれにおいても、
残念ながら人口減少によって経済が上昇するという結論は示されていない。

当たり前と言えば当たり前の話。
人口減少によって経済成長するのであれば、
現在すでにその傾向が見られているはずなのだ。

むしろ、共通した答えは、
経済成長はイノベーションによって生まれるというものである。
村上が論じるのは、
イノベーションが生まれるための環境が日本には整っているという点。

吉川は様々な有名なマルサスに始まり、
経学学者たちが人口問題をどう捉えてきたかを示し、
確かに必ずしも人口減少によって、
経済が落ち込むという確固たる結論がある訳ではないという論を展開する。
しかしながら、
次の文章のとおり、
人口減少は問題であるとの認識も示す。

人口減少は大きな問題だが、しかしその一方で、日本経済の「成長」については、「人口減少ペシミズム」が行きすぎている。人口が減っていく日本経済に未来はない、といった議論が盛んになされるが、これは間違っている。先進国の経済成長は、基本的には労働人口ではなく、イノベーションによって生み出されるものだからである。(P. 50)

人口減少によって経済が衰退することを心配し過ぎず、
イノベーションに力を注ぐべきということか。

若干残念な感はあるものの、
イノベーションこそが成長の鍵であることが分かれば、
そこの努力をするしかないのであろう。

村上が示す数々の統計や、
吉川の長寿、経済成長に係るエッセイ(そもそも本書は論文ではなく、エッセイである)は、
なかなか面白いのでそういう期待を持って読まれることをオススメします。



 

書籍 「The Journey of a Cambodian Cowboy」

本書はバッタンバン大学の学生、
通称「カウボーイ」の自叙伝である。

本名はYon Roeury。
あだ名は由来は彼が元々カンボジアの農村にいる牛追い少年だったことによる。

カンボジアの農村では教育サービスが未発達な部分が大きく、
高校まで通うのはそうたやすいことではない。
ある程度の年齢になれば、
親の仕事(大抵の場合農業)を手伝わされ、
タイ等へ出稼ぎに行くのが一般的である。
結婚する年齢もまだまだ低い。
(それはそれでいいことだが。)

Cambodian Cowboy

そんな中、学問を志し、
大学の門を叩いたカウボーイはどのようにしてそこに行きついたのか。
本書ではそんな彼の人生が綴られている。
個人的には微笑ましいエピソードのオンパレードで、
暖かい気持ちにさせられた。

文章は英語とクメール語の併記。
自費出版で部数に限りがあるため、
ご購入はお早目に。
(購入希望の方はfacebookを通じ直接カウボーイにご連絡頂くか、
当方宛にご連絡下さい。)

カンボジアの農村、教育に関心のある方にはオススメです。

 

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プロフィール

バッタンバン長

Author:バッタンバン長
カンボジア王国バッタンバン在住、バッタンバン長です。
バッタンバンを中心に、開発援助業務、大学講師、社会調査、日系企業進出・投資のお手伝い等をやっております。
お問い合わせ等は、下のメールフォームからお願いします。

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